結局プルオーバー

二転三転します

運命、魔笛、以下、省略

好きなクラシックの曲を教えてください

 

という小学校の授業を、私は未だに覚えている。

 

周りがベートーベンの運命や、授業で習ったばかりの魔笛なんかを挙げる中、私は無知に蓋をして颯爽と「別れの曲」を挙げた。

 

当時の自分の持ち得るあらゆる手段を講じ、無い知恵絞ってひねり出したのが「別れの曲」だった。

厚顔無恥をスローガンに掲げたあの時から、自分の人格は決まった気がする。

 

由来はただのMAD動画に過ぎないのに。

当時MAD動画は大変に流行していて、別段マニアックなものではなかったのに。

 

賢く見られたい、鋼の錬金術師で使われていたのを知っていたというマニアックさを知って欲しい、という気持ちに確実に満ち満ちていた。

鋼の錬金術師を大して知らなかったのにも関わらずだ。

大体、ピアノを習っている人からしたら別れの曲なんてマニアックでもないだろう。その辺りの配慮、予防線、自己防衛術を身に付けるのはもう少し先の話になる。

なってしまう。

 

 

兎にも角にも、注目を浴びたい気持ちが強かったのだと思う。

 

なにもかも自分が中心の世界であって欲しかった。

 

 

いまはその気持ちが、寂しさに端を発していたのだとわかる。

 

学力はそれなりにあった。

スポーツも人並みにできた。

人望もあった。教師からの信頼も厚かった。

 

 

ただ、誰かの一番になれていなかった。

 

私を褒めている人が、別の誰かを褒めているのをみると、無性に腹立たしく、虚しかった。

言葉の裏側を勘繰るようになった。

人とは違うこと、人が思うことの少し上をいくことを発信することに躍起になった。

人と同じでは意味がないと思った。

底を見られることをなによりも嫌った。

だから自分の話をしなくなった。

 

いまも変わらない。

 

私はわたしの好きな人の一番になりたい。

 

 

どの分野で、とかではない。

全てにおいて一番の存在でありたいのだ。

 

わたしという偶像を愛して欲しいのかもしれない。

(話は逸れるが、私は昔から偶像崇拝というワードが狂おしいほどに大好きだった。無性に刺さってしまい、未だに隙あらば日常に放り込もうとしてしまっている。)

イメージを壊したくない。その人のイメージするわたしでありたい。

 

これらの思考で雁字搦めにされた結果、自分の核が何なのか分からなくなり、ピエロを演じ続ける羽目になった。

 

 

あっちこっちで仮面を付け替えたところで、素顔は何ら変わらないことに、目を背け続けてきた。

 

 

なんのことはない。

 

昔から決まっていたのだ。

この方法で、やるしかないのだ。

 

そう決めてからは、手の内を明かすことが楽しくなってきた。

 

後から、

こういう意図があって話したんだよ、と、

こういう経緯でこの考えに至ったんだよ、と種明かしをすることが至上の快楽となっていた。露出狂と近いのかもしれない。見られる喜び。いや違うな。

結果的に、意図を理解してくれた人間は私の言葉に耳を傾けてくれることを知った。

 

 

さあ。

 

ここからだ、ここからどうする。

 

 

劇的な結末は必要ない。

劇的さを求める行為ほど、愚かなものはないからだ。

 

金も時間もかかるかも知れない。

迷惑もかけるかも知れない。

 

ただ、それでも好きにやらせてはくれないだろうか。

 

私の人生なんだ。