結局プルオーバー

二転三転します

私の谷沢、君の安西

尖っている、という表現をよく耳にする。

テレビをつけてみると、周囲と一線を画すスピードと鋭利さで物事に切り込むタレントを共演者たちが"尖っている"と囃し立てている。

それほどのスケール感はないが、私も少し前まではそれなりに色々な物事に噛み付き、不満を抱き、自らの価値観こそが絶対的な正義だった。

しかし、最近はあまり腹を立てなくなった。何かに噛み付く事も減った。私はそれを巷で有名な"丸くなった"、ひいては人間的な成熟だと感じ、安堵していた。大人の仲間入りを果たした気がして、やや誇らしくもあった。

 

ところがだ。

holkというお店に行った。

analog toolというお店に行った。

Dhalというお店に行った。

 

私がなりたかった大人たちがそこにいた。

 

温和で優しくて、物腰柔らかいのに、ふと一歩踏み出してみるとまるで底が見えない。まさに底なし沼なのだが、彼らは私を溺れさせるような真似は決してしない。自らの沼を手製のボートで案内してくれる。ここだけ水が澄んでいるのはこういう理由で、ここだけ特別深いのはこういう理由でと、自らを製品化して説明してくれる。

一旦ボートを降りて水際で話をしていると、彼らの持つ刀に気がついた。とはいえ彼らが脇に指している刀は私のそれと同様に、ただの装飾品と思っていた。

果たしてそれは全くの見当違いだった。彼らは撫でるように私を切った。心にかさぶたが出来るように。切り口まで優しかったのには驚いたが、なんのことはない、当然だ。実力が、歴史が、意図が、違いすぎる。

傷口に薬を塗る事もなく、チクチクと刺すような痛みと向き合っていると、しばらくして悶々としていたものがかさぶたと一緒にゆっくり剥がれ落ちていくのを感じた。

20そこそこの若造がなにを勝手に大人ぶっていたのだろうか。私は丸くなったのではなく、ただ現代社会に対し都合のいいように摩耗されていただけなのではないだろうか。

 

長い間溜まっていたものが抜け落ちてすっきりとしたお腹とは裏腹に、私はとても虚しい気持ちになった。ただ個性を消費しただけではないかと、心配にもなった。

 

だがそれはひとつの希望でもあった。

なりたい大人がそこにいるのだ。私は長年、私の理想となる大人を探していた。やっと出会えたのだ。

すると途端に怨嗟の声は歓声に変わる。つくづく安易で呆れるが、今は耳を傾けずにいよう。

 

私は刀の振り方どころか抜き方そのものを忘れてしまっていた。それがひたすらに悲しかったのだが、むしろそれで良かったのだ。これまで独学で身につけた太刀筋はもう、思い出せない。敵と相対しても、いつ刀を抜けばいいのか分からない。昔の型を模倣して振るってみてもいいが、錆びついた刀で空々しく踊る姿はまさに道化そのものではないだろうか。

やっと師範を見つけたのだ。それも3人も同時にだ……f:id:paya0:20190118095111j:image

彼らは所持する刀も、抜くタイミングも、切る術も、全てが私の理想なのだ。

 

彼らに学ばない手はない。

 

なんとも、ありがたい。