結局プルオーバー

二転三転します

読みたてホヤホヤは怖い

MAJOR、うえきの法則BLEACHを立て続けに読んだ結果、世間一般の中学生より中学生な気がしてならない。

 

中でも海燕副隊長の"心は何処にあるか"って話、当時より深くストレートに刺さってしまった。

私が年を取ったせいか、取るに足らないプライドや意地が少し削れてきたおかげかは分からないが、この手の話を当時捻くれずに受け止められていたら果たしてどうだったろうと思った。

無理に道化を演じることもなく、飄々と生きていたのだろうか。それとも気概に満ちた若者になっていたのだろうか。今更それを考えたところで、それこそ取るに足らない話ではあるが。

 

とはいえ私を含めた周囲も捻くれた受け止め方をしているように見せてはいたが、実際のところ真っ当にハマっていたのは間違いない。

好きなシーンの模写をしたり、蒼火墜の詠唱を覚えたりと、個体差こそあれどBLEACHを読んだ中高生の典型のような熱を帯びていた。熱は内に秘め、然るべき時に放つべきだと確信したのも、恐らくこの頃だと思う。

そこに関しては今も変わっていないし、こういう考えを持っている自分をそこまで忌み嫌っているわけでもないので、やっぱりこの形で良かったのかも知れない。

 

 

本当にそうだろうか。

 

 

過去とどう向き合うか。これから考えていかなければならない。時間に頼っている場合ではない。

記憶は必ず薄れていく。遠ざかっていく。緩やかに形を変えていく。仕方のないことだ、と思う。抗っても抗っても抗っても、人はいつか忘れてしまう。波に向かって進めば進むほど、次第に押し戻されてしまう。

無理に覚えていようとすればするほど、過去は滔々と形を変えていく。覚えていようと強く願うほど、過去は理想や願望に呑み込まれていく。だからふとした仕草や景色に触れて思い出すことの方が、きっと真実に近いと思う。既にその実感がある。この感覚だけは生涯大事にしなければならない。

 

過去に過不足がないと分かっていても、それでも人は振り返らずにはいられない。

過去を懐かしく思う一方で、疎ましく思うこともある。くだらない見栄に支配されて自分や周囲を傷つけた跡が瘡蓋になる日は来ない。

過去は変わらない。過去は今の自分の在り方で変えられる、なんて言説はほとんどが欺瞞だと思う。解釈ひとつで変えられるほど事実は簡素にできてはいない。

 

懐かしさには時に嘘や改竄が施されている。人に見せるものだから。

疎ましさには嘘や改竄はない。人に見せないものだから。

 

なんと浅ましいことだろう。考えるほどに苛立ちが募る。

ただ、髪が白くなるまで疎ましさや後ろめたさを抱えることは、きっと出来ないだろう。周囲がとうに捨てた重荷を抱えて立っていられるほど、背筋も心も張っていないだろうから。必ず下ろす時は来る。

 

その時私はどう思うのだろう。

ああ楽になったと息をつくのだろうか。

やってしまったと息を呑むのだろうか。

 

果たして後者でありたいのだろうか。

 

「考えては忘れてを繰り返しているうちに、悩んでいる振りばかり上手くなった。

何か考えているようで、分からないことが多すぎていつも投げ出してしまう。

取り止めのないことばかり気にして、大事なものはいつもこぼれ落ちてしまう。

わかっているはずなのに、臆病で向き合うことができずにいる。」

 

 

 

果たしてこれは、誰に対する嘘なのだろうか。